カテゴリ:問題解決( 248 )

感動を記録する

感動を記録しておけたらいいな。と思うことがある。
といっても、涙を流す映画を見て、文字に記録するようなことではない。
もっと行動を揺さぶる原点となった感動だ。

例えば、恋の悩みを友達に相談したら、がんばれ!と背中を押してくれて
意中の人に告白しに行った。とか、第一志望の大学に願書を出しに行った時のこと
あるいは、初めての社会人となった、入社式の日の気持ちなど。

これからやってやるぞ!という胸が熱くなる気持ち。
あの気持ちは独特で、格別だ。
そして、長くは続かず、すぐにモチベーションが下がってしまうものでもあった。
記録したいのはそんな感情と記憶である。

告白の結果、恋が実ったとしても、その後ずっと告白した時のようなパワーで
相手と接することは難しいし
社会人になった人も会社に入れば周りに流される可能性がある。

現代科学では感情は脳内物質のなせる業というかもしれない。
ハイになる麻薬でずっと情熱を保っていられるが、
それよりもまったく副作用のない「感情」や「記憶」を引き出して必要なときに「再生」
することができたら
パワフルな生き方ができるのではと思う。

もし実現するとしたら、具体的にはどんな装置になるのだろう。
他人の感情・記憶も再生できるのだろうか。
再生できるのなら、「成功者の初心」「あの社長が決断を迫ったとき」なんていうソフトが出来て、
毎日それを再生して気持ちを奮い立たせるサラリーマンが出てきそうだ。
逆に、洗脳の道具に使われるかもしれない。

SF作家、星新一に「妄想銀行」という作品があるのを思い出した。
人の頭から離れない「妄想」を預かって、必要があるときに返却または
必要な人に売却するという銀行があるというアイデアだ。
余計な想いを取り去って必要時に使うというあたりが、違うところだが。
まぁ、想いは、儚いから保存しようとし、留められなから美しいのかもしれない。

以上、モチベーションのあがらない人間の妄想である。
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by stafy77 | 2006-07-16 02:13 | 問題解決

夜のマンション訪問販売

数日前の夜、やっと子供が寝てくれた直後の出来事。
相方は外出中。子供と一緒にうとうとしていると、唐突に玄関のチャイムが鳴った。
子供が目を覚まさぬよう、そっと部屋を出てインターホンに答えると
「こんばんは。今度近所にデザイナーズマンションが出来ますのでその紹介にあがりました。○○○の×××です」
という若い男の声。
「興味がありませんのでお引取りください」
と言い放ち、次の言葉を待たずに受話器を切った。
子供の目が覚めなくて良かった、と部屋に戻り、ごろんと横になる。

物件に興味がないわけではない。
ここは小さな世帯向けアパートなのでいずれ手狭になるだろう。
そういう意味では彼のマーケティングは正しい。

しかし、自分はこの手の訪問セールスにはまず乗らない。
自分以外でも、たいていの人の反応は似たり寄ったりだろう。
では、訪問セールスは絶対に購入には繋がらないのだろうか。

そんなことはない。
大きな決断をする時、人は「人に頼るタイプ」と「情報に頼るタイプ」にわかれる。
人に頼るタイプは、普段良くしてもらっている人や場所を軸に物を考え購入を決断する。
例えば、たまたま車が壊れて持っていった近くのディーラーの対応が良かったから次に買う車はそこで!と考えたりする。
情報に頼るタイプは、ものの価値を主体にして広範囲から判断をする。
車の例なら、ディーラー問わず、カタログやユーザー評価を穴の開くほど調べ、決断は本人が行う。

不動産などの訪問セールスは、どちらかといえば前者がターゲットだ。
最近は、情報に頼る人はインターネットなど自分で客観的な情報を調べてしまうからである。
でも、親しくしている人が自分に一生懸命尽くしてくれるのをみて、「その人から」買う人もいるのだ。
マンションセールスの彼も、人当たりは悪くなさそうだったので、もしかしたら(最初からマンション販売を押しつけずに親交を深めたら)
彼から買う人はいるかもしれない。

開け放した窓から、反対側の建物で同じセールスを続け、断られ続けられる男の声を聞きながら、
そんなことを昔勉強したなぁ。と思い出した。でも、その後に実際に経験した訪問セールスではぼろぼろだったことも頭をよぎり、少しだけ彼を身近に感じた。
知っているのと実践することは大きく違うのだ。

しかし、残念ながらここのアパートでは買う人はいないだろう。
彼は知らないかもしれないが、○○○(会社名)はここ2年で4回は人を変えてセールスを差し向けてきている。
断っても断ってもやってくるのは嫌な印象しか残らないし、そんな会社と関わるつもりはない。
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by stafy77 | 2006-07-06 12:47 | 問題解決

情報を整理するということ

パッケージされた、、つまり整理されまとめられた情報について考えみる。
整理された情報にはどんなものがあるだろう。
身近なものではニュース報道、商品のパンフレット、広告、などだろうか。
反対に、頭から出たばかりの思考やとりとめのないおしゃべりは整理されていない。

両者の違いはどこにあるのか?
ニュース報道では、数あるソースの中から報道の順番、時間において重み付けをしているし
商品のパンフレットも、要点を絞って訴求するように出来ている。

一方、思いつくままに思うことをしゃべった場合、相手に意図することが思うように伝わるとは限らない。
聞き手は、話が要点を得ていないとしても自分自身の解釈で何かを導くことができるが、
それが話し手が意図したものとは限らない。

自分が伝えたいと思ったことを、相手に印象に残りやすく整理する、というのがパッケージングである。
今日のニュースは最初の数分で重大ニュースとヘッドラインを紹介してくれるし、
商品の新製品を紹介する際も、開発での膨大な改良にもかかわらず、消費者へは「このエアコンは、就寝時に強みを発揮します」というようなシンプルな紹介を行う。

パッケージングは、商品の売り込みや報道の印象操作だけでなく、自分自身を知るのにも役に立つ。
が、困ったことに自己のパッケージングは、客観的に自分を見つめる必要があるので
「自分ってどんな人?」と悩んでいる間に、知り合った人には、「○○さんって、~な人」と、印象を持たれている可能性がある。
この印象が自分の思うところか思わざるところかはお構い無しに、「○○さんって~な人」は対面したことのない人まで伝わる。
知り合いの1人の自分に対する印象は、自分が意識していなくても多くの人が自分に対して持っている印象だと認識するほうが良いかもしれない。

人に見られる文章を書くということも、またパッケージングの効果が大きい分野だ。
文章は推敲が出来るという点において、対面するコミュニケーションよりも印象をコントロールできる。
沢山のネタからピックアップして、毎日食べたお気に入りのお店だけをブログにUPしていれば、その人は食通の印象になる。
(少なくとも、ダイエット日記と同じブログにはしないほうが良いだろう。)

受け手を意識して他者と分かち合える「何か」を日々創りあげていくのは楽しい作業である。
ひとりよがりから想いを伝えるのは難しい。
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by stafy77 | 2006-07-05 08:55 | 問題解決

危険な階段

かつて利用していたビルは30階ぐらいの高さがあった。
フロアが上のほうにあり、普段の上り下りはエレベーターだった。
このエレベーターが足元と壁がガラス張りで、同僚の高所恐怖症の人は唯一の壁であるドア以外の方向には顔を向けて乗れなかった。
だが、彼が毛嫌いしていたのはエレベータではなく実は階段だった。
なぜならこの階段も一面ガラス張りだったのだ。
もし大地震などでエレベータが止まったら、避難できる階段はこれのみ。
自分はこの階段は眺めが良く好きだったが、もし地震の時にガラスが足元に飛び散ったらと思うとやはり怖かった。

さて、自分が今利用している建物の階段には窓が一切無い。
10階以上の移動もあり、エレベータを使うことが多いが、運動不足になっても困るので、試しに階段を登ってみた。
窓がない階段というのも考えようによっては怖い。
普段は、人が歩くときだけ点灯する蛍光灯がフロアを照らしているが、地震で停電したときには、
本当に非常灯がつくのだろうか。ついたとして、蛍光灯よりはまず暗いから暗所恐怖症の人には相当怖いだろう。
高いビルからの避難というのは命がけかもしれない。
まずは、足を鍛えないといけないかもしれないが。
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by stafy77 | 2006-06-29 12:48 | 問題解決

電車バスの優先席その2

前回、優先席の特徴について、
自分は、最後に残った席が優先席であれば座るし、目の前に
譲るべき人がいたら席を立つと書いた。

そうしたら、先日微妙な出来事が実際に起きた。
というのは、バスで通勤途中に知らない人に顔の見えないところから
嫌味を言われたのだった。
「若いやつは、毎日まいにち優先席に乗って~」という内容だったと思う。
確かに、ここ数日、優先席に乗る割合が高かった。
ちょうど席が埋まるか埋まらないかのバス停なので空いているのは
そこだけということになるのだ。
同じ時間だから、顔を覚えられたのかもしれない。

この席は優先席であり、専用席ではないのだから言いがかりをつけられる覚えはない。
でも、他に立っている人がいる状態で、若い人が座るとあまり良く思われないというのも
確かなことである。

そういうことを防ぐには、優先席には最初から座らないというのが良いだろう。
でも、それが果たして解決になるのか。

自分はある意味、嫌味をいったおじさんと同類である。

座りたいのに無理していい顔して立つと、座っている人を選別してしまう。
彼は若いのになんでここに・・・とか、
優先席でなくても、この人はどうして自分の降りる駅と同じ駅で降りるのか~とか、
(もともと座れない場合は関係ない)

自分勝手かもしれないけれど、
座れるところで座ってしまい、譲りたい人に譲れば、そんなにいやな気持ちにはならない。
(前述の通り、目線が気にならなければ、だが)
ただし、優先席で周りを見ないで寝てしまうことは反則技だと思う。

ただ、優先席で誰が座るべきかというのは、客観的には判断できない。
自分が座れる立場にある、ない。
この人は座るべきである、座るべきではない。
というのは、思った人の勝手な思い込みでしかなく、実際にはそれ以外にも
席を必要としている人がいる可能性があることについては、心に留めておくべきである。

例えば、妊娠初期とかであれば、マタニティマーク等で、
無言のコミュニケーションをとる方法もある。
でも、マタニティマークに頼らず、言葉のコミュニケーションを使う方法は、難しいのだろうか。

こんな会話は、、優先席では成り立つか。。。

状況、優先席には一人の若い男を残して、年寄りばかり。
若い男の前に、女性が立つ。見かけは元気そうである。

女:「すみません、ちょっと気分が悪くなってしまって、何分か座らせていただけますか?」
男:内心・こまったな、、自分も調子悪いのだけれど

  「わかりました、自分もちょっと足が悪くって。 荷物置いていただけると嬉しいです。」

  ・・・席を立つ
女:座りながら

  「ありがとうございます。少し気分が良くなったら立てますので」

まぁ、無理だろうなぁ。。
この会話のどこかで、どちらかがむっとして険悪ムードになるだろう。
でも、こんな会話がやり取りされたら、どこかほっとした気持ちに
なれるかもしれない。
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by stafy77 | 2006-06-23 12:29 | 問題解決

人生とは

よく、山道が人生に例えられることがある。
木々の茂る周りの見えない坂道を登り、途中見晴台で一息ついて
だんだんと周りの木々の背丈がひくくなり、岩場をのぼり、やがて頂上に着くのだと。

この考え方は嫌いではない。でも、自分は人生がいつも平坦ではない山道だと考えるのは
少なくとも「道」が見えなくてはいけないわけで、道を探すことからはじめると、
必ずしもぴんとこないところがある。
だから、こんな風に考えるのが好きだ。

人生とは、、
大きな階段を一歩一歩登るようなものである。
山の例えの、山道が「階段」に変わったぐらいの違いだが、
この階段を一歩上がるために、人は階段の中を右往左往する。
階段の中で出会う人、環境、考え方などは、その人のその状態に相応しいものとなる。
そして、ロールプレイングゲームでレベルがあがると使える呪文が増えるように、
低い段にいるときに、高い段でできる問題解決をしようとしても自分、環境的にも難しい。

どうすれば、1歩足を持ち上げて階段をあがることができるのか。
一歩足を持ち上げて次の段に挙がる方法は難しいともいえるし、優しいともいえる。
一つの階段を上がったときから、次の段に上がるために解決すべき問題は、
様々に形を変えて自分の前にあらわれる。
もしかしたら、分岐点として複数あらわれるかもしれない。
やり過ごすこともできるが、それでは段は登れない。

それに気がつかない人。気がついても解決しようとしない人は
いつまでたっても同じ段の中を彷徨うことになる。

一生、階段を登り続けなくてもいい。どこかで腰を落ち着けることになるだろう。
でも、当面、今の場所に満足していない限り、階段は登ろうとすることになるだろう。
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by stafy77 | 2006-06-06 04:33 | 問題解決

幸福、平和について(抽象的)

平和で皆が幸福に暮らせる世界はどうやったら作ることが出来るのだろう。

多くの宗教書、啓蒙書に書かれている通り、個人の幸せとは
「良く生きようとビジョンを持って生きる」
ことに尽きると思う。

自分の内部に抱える問題を諦めず、クリアしようと努めれば、環境に寄らず
(例え彼が人類最後の一人であっても)
その人は自己充実した人生を送ることが出来るだろう。
個人の幸福の総計は世界の幸福に繋がるはずである。

宗教が誕生してから今日にいたるまで多くの人が啓蒙書を読み、
教えを実践しようとしてきた。
そして、社会の情報量は、増加の一途を辿っている。

ということは、人類の(環境によらない)幸福の総量、または人口比での
幸福量は増えているのだろうか。

仮に、増えているとしたら、将来、戦争、災害、人口問題の末に人類が滅びたとしても
その最後は、心の中は比較的穏やかなものになるような気がする。

増えておらず啓蒙が役に立っていないなら、人間そこまでパワフルではなかったという
ことか。

自分自身については、啓蒙書を読み方法は漠然とわかっても
具体的な実践にはいたっていないから、世にはそんな人が大半なのかもしれない。

「良く生きること」は、善悪の判断や地球人の総意を元にしない。
昔から、何人もの軍人、武将が立派な人物として崇められてきたし、
彼等はその時代を作り駆け抜けた。
武器をもって戦場を生きることが「良く生きること」である人もいる。
つまり、「良く生きること」の結果が、地球人を滅ぼすことだってありえるわけだ。

しかも上で、「地球人の総意」という言葉を使ってしまったが、そんなものはまだない。
たいてい、個人は自分が生きているステージしか意識が向かないからである。

「地球人の総意」とは何だろう。

人が自然と共存していたころは、人はなにも考えなくても生態系の一部に
組み込まれていたから、生きることそのものが
住む場所を長きにわたり維持することだった。
しかし、悲しいかな、今の人類は地に足がつかないでも
生活が出来るようになってしまった。

地球単位で生活環境の保全をすることが地球人の総意となるのかもしれない。
(将来は宇宙も含むだろうが)

国は、自らの生活を守るため、いろんな利益団体の代表が政治など活動をしているが
国同士となると根拠や基盤があやふやになるようで、
外交が国民の総意の結果になることはあまり多くない。

それが、地球人としての利益、といったら、どれぐらい実際の生活から離れたものになるだろうか。

人類の歴史は、自ら生きるために、人同士を束ね、分裂させてきた。
果たして、「地球」という単位でまとまることができるのだろうか。

SF小説は、人類が驚異を目にして「後○○年早くから準備していれば」となげくのが
お約束だが、そのようにならないことを祈る。
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by stafy77 | 2006-05-10 00:00 | 問題解決

庭の思い出と、コスモス作戦

自分は、実家を離れて相方とアパートで生活している。
実家は車で1時間ちょっと。庭付き戸建てだ。
庭には、木が何本かあり、あまり手入れがされていない芝生がある。
芝生から建物にかけて、たくさんの鉢植え、プランターがある。
庭はすべてが芝生ではなく、土が見えているのに、植物がないところもある。

昔から、(といっても小学生のころだが)自分はこの土のある場所にシャベルで溝をつくり
水を流したり、、意味もなく土をほじったりするのが大好きだった。
土と草がある環境は、恵まれているだろう。

この庭は、祖父がなくなってからは、父か母のどちらかが権限を持っている
(たぶん、鉢植えやプランターは母で、芝生やめだかは父だろう)
うんとむかし、「池がほしい!」と自分が騒いで、(そのときは
実力行使にでるまでもなく黙殺されたが)、ずいぶん後になってから、
石を敷き詰めた枯池を作ったのが父だからたぶん父である。

数年前、芝生の端っこに3色スミレが生えてきたのを発見したが、
父に雑草扱いされて引っこ抜かれたのを記憶している。

さて、自分は子供の時期は過ぎて家を出てしまったのにもかかわらず、
ある計画を思いついた。

それは、、、こっそり庭の端っことか、草のないところに、
コスモスの種をこぼしておいたら、秋にはそこにコスモスが咲いているだろうか。
という実験である。

言えば、反対される気もする。
プレゼントとか、抜かないで!とか言っておけば
よくすればついでに水もやってくれるかもしれない。
しかし、黙っていれば、雑草扱いだろう。
目立つところにまいたものは、抜かれてしまうことは確かだ。
(コスモスは雑草並みにタフである)

今年の秋、、うちの実家でコスモスをみることはできるのだろうか。
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by stafy77 | 2006-05-08 00:00 | 問題解決

特大の洗剤

家で生活をしていると、
これが急になくなると困る!というものがいくつか存在する。
マイナーな物では、乾電池、、(実際に使うときに限って電池切れだが)
それから、トイレットペーパー、ティッシュペーパーの類。
(日中生活人数が倍になると消費量がとたんに増えたり、
 花粉症の時期にはあっという間になくなるので注意が必要)

あとは、シャンプー、リンス、台所用の洗剤。などなど。
注意が必要なのは、新聞屋さんがただでおいていってくれたりする
(実際は契約をかたに)洗剤だ。

この小さな箱を頼りにしていると、あっという間に粉はそこをつき、
洗濯したいのに粉がない!という羽目になる。

ささやかなことに思われるが、
この、欠乏の恐怖に耐えながら生活を続けるのは苦しい物である。

去年の今頃だったろうか、ふと立ち寄ったスーパーで良さそうな物をみつけた。
「洗濯用洗剤 特大 4.1KG」
なんといっても、4.1KGである。これなら当分、なくなる心配をしなくてもよい!
その時は、自転車で買い物に行ったにもかかわず、
4.1KGをひっさげて、意気揚々と帰ってきたのだった。
(2リットルのペットボトルのお茶2本分ぐらいだ)

あれから一年。
底がないのかと思われた白い粉の箱は、湿気や、水をこぼす恐怖にも耐え、
いまや、半分は底をのぞかせている。。
もう少しだ!

1年間、欠乏の恐怖から救ってくれた特大粉石けん。ありがとう。
こんな大きいパッケージを作ってくれたメーカー様、ありがとう!

そして、、洗面台の下の収納スペースには、、
この一年、新聞屋さんからもらった粉石けん
500G×10箱が、鎮座しているのであった。
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by stafy77 | 2006-04-26 00:00 | 問題解決

自分が子供に教えたいこと。学校に求めること。-コミュニケーションの能力について

Excite エキサイト : 社会ニュース

自分には、人と話すにあたって大きな欠点がある。
それは、話していることが伝わらない。ということだ。
聞くべき内容が明確なときは、メモ書きでもなんでも作って話したり聞いたりすることができる。
電話でも、箇条書きにしておいて、
・電話の目的は×××
・Aを確認、YESならBを確認、Noなら○○○などと、書いておけば
抜け漏れがない。
また、きっちり頭に入っている内容なら、少々表現が変わっても答えることができる。

問題は、瞬間的な受け答えに自分が非常に弱いことだ。
人に、思いついたことを質問したりすると、ことごとく、主語や目的語が脱落するために
あるいは、質問自体が明確でなかったりするために、
「??何を言っているの?」という結果になる。

会話は妙に気まずいものになるか、逆に緊張を強いられるものになるかのどちらだ。

自分はそうした自分の欠点を知っているが、こんな話し方(思考を抽象的なものから具体的にする力)が
産まれてからどの段階で身に付いたのかは知らない。
成長の過程で、「ここでしかできない」ことがあれば、ぜひそこに戻ってやり直したいものであるが、
それは無理だろう。

親として、当然の思いであるが、子供にはこんな思いはさせたくはない。
子供に何かを注意しなくてはいけないとき。
大事なことを伝えなくてはいけないとき。
筋が通った言葉で、思いをきちんと伝えることができるのだろうか。
また、子供も、会話をすることができるのだろうか。

そして、それらは学校教育で身に付くものだろうか。
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by stafy77 | 2006-04-18 00:00 | 問題解決